必死に生き延びてきた30年。技術の重みが残った
「よし、これはオーケー。次は?」。八日午後、天草池田電機=天草郡松島町=で緊急会議が始まった。電子制御部品(リレー)に組み込むコイルの生産工程で、いくつかの問題点があることが内部監査で分かった。会議はその改善策を話し合うためだった。指揮を取るのは第二製造部長の新田八徳さん(53)=同郡有明町。「最終的には品質勝負。小さな改善でも積み重ねることが大切」
同社の前身のオムロン天草(当時は天草立石電機)は、1972(昭和47)年の創業。新田さんと、ともに生産の中核を担う第一製造部長の平山公義さん(55)=松島町=の二人は当時からの社員。社歴は三十年を超える。
創業当時はプレハブの工場だった。夏場は室温が急上昇し、屋根から水をかけた。「狭い工場に社員はぎっしり。文字通り、熱気があった。世の中全体にも勢いがあった時代だった」と新田さん。平山さんは「分工場は農村地区にあり、社員は農家ばかり。農作業を総出で手伝うこともあり、地域と一体感もあった」と振り返る。
だが、73年、オイルショックが日本経済を襲う。創業間もない工場は仕事を失い、新田さんらはグラウンドの草むしりの日々も経験した。
まもなく家電製品の普及などから、工場は軌道に乗った。十年前のピーク時は、パートを含め三百人近い従業員がいた。そして、バブル経済が崩壊した。
「三十年間に景気の波は何度もあったが、いつも持ち直すことができた。しかし、バブル崩壊後の不況は深刻だった」と新田さん。「コスト競争のため生産の海外移管も始まり、(オムロン天草は)持ちこたえられなかった」
三十年間に入社した従業員は延べ千人以上。しかし、合理化のため最終的に残ったのは二割に満たない。新田さんはあらためて思う。「この天草で、必死に生き延びてきた三十年間だった。意にそぐわず、職場を離れた人もいたと思う。だが、この会社には積み重ねた技術の重みが残った」
「熊本日日新聞」